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2000


<2000>

街路樹

 今年も、街路樹の剪定作業が始まった。

私は仕事の手をとめて、寒風の中無言で進む作業を見守っていた。

それにしても毎年切り落とされる枝葉の量の多さには驚かされる。

そこで、作業中の職人さんに訊いたところ「はい、毎年、同じように刈り込みます。」 と、あたりまえ

の返事が返ってきた。

  あっという間にごつい幹ばかりになったフウノキは、既に何十年もの間、与えられたこの場所

から動きもせず、年中排気ガスにさらされ、時として自身が枯れるほどに水が絶えてもなお、ここま

で生きようとすると思えばけなげである。

そして夏には葉を幾重にも茂らせ、下を行き交う人たちに緑の影を広げ、遠目には緑の帯びとなって

人の心に安堵感を覚えさせる。

 「緑」とはそう云うものなんだろう。

  昔、地球をガスが覆っていたころ、海中で呼吸を始めた植物が出す酸素が地表面を覆い始めて、

地上に緑の葉を持つ植物が繁茂し始めた。

地上の植物たちは益々酸素を吐き出し、われわれの祖先が海中から恐る恐る地表へと進出しはじ

めた。

そして気の遠くなるような時が流れて人も棲む星になった。

  しかし、ここ数十年の人の行為の傍若無人ぶりは、あっという間にオゾン層を破壊し、己を含むい

っさいの命の生存を危うくしている。

人は、総ての存在が共有してきたその同じ時の流れを忘れたごときの振る舞いで、 己の存在まで

も危うくしているのだ。

  剪定されていく街路樹を見ながら、私は今緑を守らねば21世紀の未来は語れないなとつくづく考

えてしまった。        ナムアミダブツ                                                 

(2000年11月22日)

秋日和
  今朝はこの秋、たぶん三日目の秋日和だったと思う。

昨夜のTV予報から、寒風だろうと思いながらふとんから這い出したのだが、風の音もなく空気の冷

たさもまるで感じられなかった。

だから今朝の散歩はいつにもなく気分良く、体中の細胞が深呼吸をしているような感じがしていた。

夜露で黒々とした公園にある、大きな木製のテーブルには、風のない静かな夜の内に散り積もった

桜の葉がにぎやかで、今の今まで会話が飛び交った酒宴の後のようだ。

椎の木の方から、うぐいすの笹鳴きも聞こえてきた。

東側のベンチの背もたれには白く光った夜露が等間隔に並んで下がっていた。

月の涙とはよく言ったものだ、月の想いも朝日で暖められてやがて消えていくのだろう。

夜露をいっぱい含んだブタクサが花のてっぺんをかしげて重そうだ。

たくさんのオバナが綿毛を閉じてこれも重そうに、皆一斉に同じ向きにかしいでいる。

周りの茅に隠れそうなノギクが、青空を写したような色の花びらを、一様にに下に向けて、露が消え

るのを、じっと待っている。

  こんな穏やかな朝は、野鳥たちの鳴き交わす声も、いつもの朝より活発なで様子で、きょうの

小春日和を予感しているようだ。

そういえば今朝は久々に、モズの高鳴きを聞いた。

  そしてまた、今年も公園の砂場で、秋の食彩で作られた、ケーキに出くわすことができた。

(2000/11/09)

 

マツタケ

  今年もまた近所のスーパーマーケットに、旬の味のマツタケのコーナーがお目見えした。

今年のマツタケは出来が良いのか悪いのか平年作なのか、はたまた美味いのか美味くはな

いのか、食したいとは思わないのに、やはり気にはなってしまう。

ぼくの頭の内には旬と云う言葉がいつもにひそんでいて、森羅万象の移り変わりを必要以

上に追っている。

それが旬と云うものなのだろうな。 

 

 ところで、マツタケと云うと一つの思い出がある。

30数年前、数人の先輩と大学の研究室のコンロで焼いて食べた思い出だ。

研究室のどこからか金網を探し出してきて、醤油をかけて食べたんだが、そのシーンは覚え

ているがその味のほうはいっこうに覚えてはいない。

それ以来マツタケの形を確認しながら食したことはまずないようにう思う。

たまに食したといっても、マツタケが入っているはずの丼物だとか、マツタケの香りがするお

吸い物のたぐい程度である。

なにそれとて、マツタケの匂いの素を本物と(そのときは)感じながら食したのに違いない。

 

 昨日、夕方のNHKラジオからオオタさんと言うマツタケ採りの名人の話を聞いた。

マツタケ採りの要領は、それは・・・・   

     樹齢50年ほどの赤松の生えた山で  

     朝方の気温が下がり、吐く息が白く見え始めるころ   

     赤松林のある南斜面で、

     尾根の上の方から生えてきます   

     マツタケは地面が乾いていなければ、育ちません   

     赤松には男松と、葉っぱが赤っぽい女松があって   

     女松の落ち葉の下にしか生えません   

     生えるときは、まるく円形に出てくるので   

     落ち葉を良く見て、盛り上がっている所を   

     そっと3本の指で掘るようにしてとります   

     1本採れたら、必ずその付近を捜してみること   

     必ず、採れます

 そして

こないだまでは、一度に、背中に一杯と手の袋にも余るほど採れたそうです。

また、お汁にしていただくのが一番おいしいそうです。

  最後に・・・

・じぶんちの山にしか入りません。

他人様の山には採りに入ってはいけません、と のお話でした。

   ここのところを、ゆめゆめ御忘れなく・・・・・・・             (2000/10/20)


秋本番

 この一週間ほど,停滞する前線の影響で、断続する大雨が続いた。

前線が北へ去った翌朝、久しぶりにゆったりした気持ちで愛犬と散歩に出た。

愛犬の喜び様はリードを通して痛いように判ったが私はゆったりと歩きたかった。

公園の椎の木はこの大荒れの天気にも拘わらず、実を一つも落とさずにすごしたたようだっ

た。

東の空に開いた雲の窓から青い空を眺めていると,遠くの方から,今年初めてのモズの高鳴

が聞こえてきた。

 それから一週間程過ぎたが、ほぼ毎日モズの鳴き声を聞いている。

今朝などは、二羽が一緒に飛んでいるのを見ることが出来た。

その飛ぶ様子からして、番かなとも思ったが、時期的に少し早すぎると思うのだが、どうだろ

う。

もっともどの世界にも必ず例外的な奴が居ることだし、本当のところ判らない。

 散歩から帰って朝シャンの最中、小さく開けた窓から小型機の飛んでいる音が聞こえてき

た。

そのエンジン音は随分と高くから聞こえてくるようで、幾分硬く弾むようにいつまでも聞こえ

ていた。

たぶん高い空の上まで乾いた空気で充たされているのだろう。

ここ数日の朝晩の涼しさで水槽のホテイアオイの緑も急激に色あせし始めた。

やがて、アキアカネが街中まで降りてきて、夕日にきらきら輝きながら、群れ飛ぶ日も遠くは

ないだろう。    

                                          (2000/09/25)

 


ハトの餌
 公園の桜の大木の下が,斜面から流れ出した赤土の為,その一角だけが明るく輝いて見

える。

 それは丁度,教科書に書いてあった扇状地のミニチュアそのものだ。

ここ数日の暑さでそのミニ扇状地がすっかり乾いてすずめ達の砂浴び場になっている。

今朝は7羽のすずめたちが群れて、黄色い煙を上げていた。

その場所は近くに棲むキジ鳩夫婦の採餌場でもあって、すずめ達のことは気にもならないら

しく、今朝もせわしげに餌を啄ばんでいる。

  それで私は、再三に亘ってこの砂浴びでぼこぼこになったミニ扇状地にしゃがみこんで、

キジバトが忙しなく啄ばんでいた「モノ」見つけようとするが、規則正しく歩いた足跡以外は何

も見当たらないのだ。

まさかキジバト夫婦は砂粒だけを啄ばんでいるとは思えないのだが。

はて何をついばんでいたのだろうか。

(2000/09/01)

合歓木

 この春から毎週末 、片道50キロ離れた日の出町の病院まで、父に会うために通ってい。

長時間のドライブは楽ではないが、病院が山間にあるために週毎の天然の変化 ,街路沿い

の様子の変わり様が見て取れて楽しみでもある。

 今日は庭先に黄色のカンナが咲いていたし、葉鶏頭の光っているような鉢植えも眼にとま

った。  まさに夏の花だ。

そしてまた病院までの間に、7本ばかりの合歓木があって、それが今ちょうど花を咲かせて

ている。

今日まで車窓から茫洋とした樹型を眺める度に、何だろうと思っていた。

その樹が今、舞子さんが使っていそうな桃色のおしろい刷毛の様な優しい花を、ボーとしず

かに咲かせて いる。

               * * * * * * * * * * * * * * * * * * *       

 

 子ども時代を暮らした山間の炭住の町。

谷の奥に向かう道の左側に大きな合歓木が立っいてた。

僕は夏の夕方決まって冷えはじめた空気を感じながら、すでに陰の中に沈んだ谷に下りて

行くのだった。

昼間でも薄暗い谷は浅い入り江いなっていて、高く伸びた柳の群落が、縄の様に細い枝をた

らして、いつも静かに揺れていた。

そして私のすぐ前の、水の中に立った柳の赤いひげ根の側を鯉が泳ぎ去った事もあった。

苔が着いて濡れたような柳の幹には、巻き貝の形をしたカタツムリ が棲んでいた。

そして1人冷たい石に腰掛けて 、ヒグラシの遠く近く悲しげに鳴き交わす時間の中で自然に

とけ込んで過ごした。

              * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

 

 つい数年前までは、そんなふるさとの空で遊ぶ恍惚とした自分の夢を見たが、40年を過ぎ

てもう見ることがなくなった。

今は夢の記憶を辿ることだけしか出来ないでいる。

 そう言えば、手元に引き寄せた合歓葉を両の手のひらで軽く挟んで 、その櫛状の葉が閉

じて行くのを感じて 楽しんだ遊びもよみがえってきた。

そんな思いでの合歓木である。 

                                         

(2000/07/15)

にわか雨

 夕方、 雲行きを気にしながら仕事場を出た。

最初の角を曲がると、案の定ポツポツと雨が落ちてきた。

薄暮とはいえ、頭髪のおかげで見るよりも先にそれと気がついてしまうのだ。  

地下鉄の駅まで、急ぎ足で約10分ほどである。

街灯のほか灯りのない裏通り、 雨足は見えないが、眼鏡の濡れ方からして、思いのほか降

っているようだ。

そして歩きながら、ふとあの懐かしい「におい」に満ちているのに気がついていた。

それは、乾いた土に降りかかる雨粒が、土の分子を空気中に放散する独特の匂いだ。

「ホコリ」のような匂いで、表現は適切ではないと思うが、「ホヤの味の匂い」、掃除機のゴミ

袋を口に当てて深呼吸した(ことはありませんが・・・)ような感じで、カラカラに乾いた土に雨

が降り始めたほんの短い間だけしか、この匂いはしないのである。

ある 学者がこの匂いを大まじめに分析して云々と言うのを何かの本で読んだことがあった。

この匂いから子供の頃のにわか雨を思い出したのである。

 

 先日、吾が息子が学校のつり仲間と、近くの公園に出かけて、その様子をビデオに撮って

帰ってきた。

仲間たちが釣り糸をたれる姿や 、バケツの中の釣果をビデオカメラでレポートしながら、時折

笑い声が入って、いかにも楽しげである。

そこに突然の雨、黒く静かな水面にはっきりとちいさな波紋が広がり、重なりあって、見る間

に白っぽく変わっていく。

そして、次の瞬間カメラは明るく広がった空へ向けられて行った。

大きな樹の梢から、大きな虹の弧に沿って、ゆっくりと撮っていく

「きれいです」  「きれいです」 としゃべりながら 。

 毎日、暗くなるまで家には帰ってこない吾が末子ではあるが、 やはり、外で色々と経験をし

ているなと、少しばかり安心して観たビデオであった。

 そう言えば近頃、以前より虹を観る回数が増えたように思うが、本当のところは どうなんだ

ろう。

諺に「朝の虹は女の腕まくり」と言うのがあったと思うが、・・・よし今日はこれから晴れるな、

今のうちに、<たらい>に水をはって洗濯をしよう・・・と言うのである。

天気とは無関係に日常が 進んでいく現代ではあるが、「・・エコ・・」「・・エコ・・」と云うコピー

が大流行の今、一人一人がもう少し自分の生活を見直す事が大事なのではないだろうか。

(2000/05/30)

春先の雨

 春の嵐が吹き去った朝、裏通りの水たまりにガラス細工のようなセミ

の抜け殻が落ちていた。

抜け殻は青空を映すその水たまりで、両の前足を深く折り曲げ、乾いた

二つの眼は遠い雲の流れを追っている。

殻の主は、どんな一夏を過ごしたのだろうか、今はもういない。

  この時期の雨は乾いた地面にしみ込み、木々の芽を内側から一気

に押し広げる。

此の様子はまるで分解写真を見せられているように動物的だ。

一雨毎に山野の様相が変わっていくのには、毎年のことだが驚かされ

る。

 光の春がやってきた。

野鳥のさえずりが賑やかになってくると、灌木の枝に懸かっている捨て

られた巣も,やがて 若葉の影に消えてしまうだろう。

(2000/04/04)

「ユモミタケ 」を知ってますか?

 一年中極度に湿った環境に生息し真っ白で扇状のヘタを持つキノコ

の一種である。

短時間ならばかなりの高温にも耐える堅いヘタは食せるかどうか知ら

ない。    他のキノコ類と同様、成長をやめた木部に見られる。

 あなたはこのキノコを存じですか?

 

 これは、我が家の風呂場で2年ほど前から使っている、廃材利用の「

湯かき棒」に、 いつの間にか発生して群落?まで作ってしまった「キノ

コ」の事で、毎晩湯をかき混ぜる度に気になってしかたがない。

 特に、熱湯に使った 翌朝などは湯船のドアーを開けると、真っ先に、

逆さまに立てかけて有るその「湯かき棒」の先を見てしまうのである 。

  見様によっては少々気味悪いと思うが、吾が4人の同居人からは

今のところ何もいってはきていない。

 群落の最大のヤツは数センチにも成長しており、毎晩誰かが見てい

そうなのに・・・・である。

 

以上を思いついたのは、有る翻訳家が「サルマタケ」と云うことばの語

約を調べられる限り調べても分からず、最後に、その本の著者に手紙

をしたためて聞き出したあげく、それをどうやって訳したら良いか、七転

八倒の苦しみをした・・・・・・と、古いエッセイスト集に載っていたのを思い出し

て マ ネ テ カ イ タ モ ノ デ ス。  悪しからず・・・。

   「サルマタケ」って分かりますか?

                                   

 

(2000/03/30)

菜の花の思い出

 子供の頃を九州の山の中で過ごした。

 春になると、広い畑には 色鮮やかな菜の花が植えられていて、菜の花に集まるモンシロチョウを追ったり、

青虫を集めて蝶の羽化を楽しんだりしていた。

 毎年この時期になると朝のテレビで、季節を先取りしたように、画面

一杯に広がった菜の花が紹介される。

 すると毎年決まって一つのシーンが思い出される。

 高校の頃、当時はまだ珍しかったスポーツ車で日曜毎に、片道20

キロ程を飛ばして、唐津の海まで行っていた。

  そしてある時、標高4〜500メートルと思うが、富士山の山頂付近を

切り取ったような「鏡山」にの登った。

平らな山頂から、眼下を見下ろしたとたん、眼が釘づけになった。

春の明るい陽光に、金粉を蒔いたような、矩形の菜の花畑が、

ウヲーンと云う感じで眼に飛び込んできた。

 周囲の様子は何も覚えてはいないが、吹き上げてくる春の風は、

菜の花の香りに満ちて、鼻孔から脳の奥までしびれていくのを感じた。

 40年近く経ってこの時期、菜の花と云う言葉を聞くと、今でも鼻を

クンクンしてみたり、眼がチカチカした思い出に浸っている 。

 子供の頃の親友が今もその麓の町で暮らしている。

(2000/2/25) 

雑木林を歩いて

  吾が借家の入り口にある一株の茅には、穂先に綿毛をつけたまま

のススキが秋風に綿毛を託す事も出来ずによじれて黒ずみ、春を迎えようとしている。見るからに哀れだ。

 正月休みに歩いた近くの雑木林で、紅葉とは明らかに様子の違う枯れ葉を枝先一杯に付けたままの

<落葉広葉樹>があちこちに立っていた。

散策する人間への抗議とも警告とも思えて、のんびりとした散策気分もしぼんでしまった。

人の営みがこの水の惑星にダメージを与え初めて僅か100年余り。

狂い始めた大自然の循環 は元の形に戻ることが出来るのだろうか。

考えるだけで何かむなしい気がした。

(2000/1/10) 

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