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2009

雀のお宿

 近くの駅前の歩道にお椀を伏せたような樹形をした、影に入って見上げてもほんの少しの光も漏らさないほどに葉が茂りに茂った樫の木が、赤みがかったタイルの歩道の中に立っている。
北国から初雪の便りが聞こえてくるこの時期、すっかり陽が落ちた帰宅時間には鞄を持つ手に冷たさを感じて、スイートホームへの足取りが意 識し ようがしまいにかかわらず早まったりするころ、通行人も絶えず、葉の茂みに手を伸ばせば届いてしまうような近場に群
雀は定宿を 決めているらしい。
この時期、樹下はゴマの花でも咲いたような雀フンと、野から戻ってきた群雀が、今朝の夜明けに四方へ散ったきり終日姿を見なかった
知雀と、こぶになって眠りにつくまでのひと時を、目の前の豊穣の樫の実の一枝をヒョイとくちばしで折ってシーシーもぐもぐさせながら、
モウキン類に追われたとか、どこそこの田んぼには間抜けなカカシが立っていただとか、田んぼに張り巡らした網に気をつけろとか、
まるでよく出かける休日のファミレスに集合したおばさんたちのような猛烈なファイトを、しばらくはジュクジュクジュクジュクと雀語で発散
し 合った後、落とした枝に付いていた無数の樫の実が転がりきっている。
この樫の木の群雀の、日暮れに野らからの帰還直後の場所取りがすむまでと、と氷雨の降る夜や北風の吹く最中にでも、横を通りかからない限り群雀には気が付きはしない、まして御名羅のにおい、そんな気配も流れてはこない。
群雀は樫の葉の重なりと同化したかのように息を殺して静まりかえっている。
日暮れ前の大気のにおいや暮れなずむ西に現れた雲の色や、襲ってくる寒さの予感や、夜明けの冷え込みに備えるために、
僅か数グラムの体力のわずかなエネルギーの蓄積ですら持ち合わせてはいないことを知っているのである。
空を自由に飛ぶために極限までそぎ落とした進化の姿は、夜中に蒲団から這い出して冷蔵庫を開けることなど、 水の星を一人痛め
続けているホモサピエンスのほか思いもよらぬことなのである。
まして黒く冷たいとばりのなかで体を寄せ合う隣の雀嬢にチョッカイを出すなどウツツをぬかしていると、温かい陽が射し始める喜びの朝を迎えるころには 、あわれ硬い松ぼっくりのような姿で冷たい歩道に転がっていることになりかねない、そのような予感、運命、たちばを
薄々と或いははっきりと知っている、感じているはずなのである。
そこで還暦のころを懐かしく思えるほどに年を重ねてきた私は、ふとワレニカエッテ、一日消耗した体力を回復するべく、
今宵もただひたすら闇をむさぼろうと半ばあきらめつつ後ろ向きに決心したのであります。では・・  
                                                                          (2009/11/22)

ルーティーンが狂った朝

いつもの時刻に家を出て、いつもの電車にいつも決まったドアーから乗って、次の駅までに右側の窓から246の車の流れを見て下車、エスカレーターで改札へ上がり、乗り継ぎの渋谷方面ホームの一番後ろまで歩く。
待つまでもなく、遠くの丘陵の影から、ゆっくりと先頭車両が銀色に輝きながら姿を見せ、まもなく電車到着のアナウンスが流れてくる。
いつもの車輌へ決まったドアーから乗車。いつもの朝がルーティーンのように進んでいる。
心地用よい間帯である。
とはいえ、この車輌はいつもは乗客2〜3人のはずだが今朝は乗客が多い、大方1/3は座席が埋まっているようで3Aドアの横はあいにく婦人が座っていて、其の隣にゆっくりと座った。
本を開くべく眼鏡を替えたが、頭の上が"すずめのお宿に迷い込んだように"うるさい。
目を瞑っていつものタイミングの車内放送に耳を傾けた。
曰く「今朝は事故でダイヤが乱れ、全列車が各駅停車で運行しています」。
なに、田園都市線のダイヤの乱れは日常化していてさほど驚きはしないが、乗った車輌が今しがたまで"女性専用車輌"だったのである。
顔を上げてそれとなく周りを見回すとなるほど男性の姿はないようだ、ジャケットの襟に頸を埋めたい心境である、が、
先の駅までのわずかな時間我慢すれば済むことだ、9時半と云う時間的には問題ないはずだから。
彼女らは休みが近いためであろう、朝から、それぞれのグループがそれぞれの話題に花を咲かせて、競い合っているようだった。
今考えると、 アナウンスを聞いたときすぐ座席を立つべきだったのである。
後悔先に立たずである。
そういえばホームを一番後方まで歩いている間に聞こえるはずの、電車到着のアナウンスが今朝はなかったなア―。
                                                                          (2009/4/27)

改札の鉄道唱歌

昨日の朝、雑踏する改札口で大きな声が聞こえてきた。
選挙も近いようだし、どこかの党の演説だろうと、反対の入り口に向けて耳をジャンボにしてみたが、意外にも近くから聞こえていた。
無機質の券売機の列の前、人の流れが交錯する中に小さな子供が券売機を見上げるようにして、
大きな声で歌を歌いながら立ってい るのである。
その若い母親はとみると、大きな路線図を見上げて目的地を探しあぐねている様子だ。
子供の声を良く聞いてみると、ウーウウーウウと抑揚をつけた大きな声のメロデイーは、若い母親は歌えるはずもない、
・・・汽笛一斉・・・・の「鉄道唱歌」である。
   私は改札を入ってホームに降り電車を待つ間、この子供の家族を想像していた。
この子供の家庭は祖父母と二世帯で暮らしているらしい、いつも歌いながら歩く祖父母に手をひかれて買い物に行ったり、
お散歩の帰りに背中におんぶされて眠りながら聞いているうちに、いつしかこの母親も知らない古風な歌を覚えてしまったのだろう。
今風の若い母親だったら、そばでこんな古風な歌を、大きな声で歌われたら、きっと止めたであろうと思った。
季節外れの冷たい朝に出会ったこの親子。
幸せな親子の暮らしの一端を垣間見た思いで、私は嬉しくなって電車の到着を待つことができた。
                                                                (2009・03・27)

老いては妻に従う

   仕事の帰りは雨でも降らない限り、三つ手前の駅で降りて歩くことにしている。
三駅手前で下車というと、聞いたみんなは驚きの表情を見せるのだが、なに、ちょうど乗換駅もある正三角形の一辺を歩く格好になる
ので、たいした距離にはならない。
速歩きで30分ばかり、それでも家に着くころには、この寒空でも汗ばみ体中が喜んでいる感じがして、精神的にもまことに心地よい。
  私は狭い工房で数十年にわたり永い間座業を続けてきたが、この年になっても、歩かないということには慣れることは無いようだ。
それで、たまの休みの日にも、必ず「歩いてくる」と声をかけて出掛けている。
  私の歩く様は、歩幅が広めで速いために、頭が上下に動いて遠くからでも、すぐ分かるそうである。
たまに ワイフや娘と待ち合わせをした時などは、いつもこの事を言われて、そしていつもきまって笑われているのである。
  実は、この歳になるまで、元気よく歩くことについては内心多少の自信があって、ワイフと二人で出掛けても、いつも私の歩き方が
速すぎるとか、も少しゆっくり歩けないのかと、文句を言われ続けてきたのであるが、 私に言わせると、ワイフこそが遅過ぎるとい つも
思っていたのである。
  しかし 近頃、たまに一緒に出かけると、いつの間にかワイフは、私に背中を見せながら、そしらぬ顔をして歩いていることがある。
還暦を過ぎていつの頃からか、ワイフの後塵を拝する姿になっていたのでありますが、 老いては子に従えとは諺に聞きますが、
転じて、老いて妻に従うのもまんざらそう悪くはないのではないかと、諦めに近い納得をしているのであります。
そして 妻が一層たくましく思える、今日この頃であります。                               (2009/1/30)

 

氷の華が咲いた

 関東の東海上を強い低気圧が通過して、大荒れの一日になった。
この時季の強い雨と雨は、そういつもあることではない。
一夜明けて、今朝は霜が降りて、川沿いの舗装道路はところどころ薄い氷で覆われて 、亀甲型にヒビの入ったところには、
その割れ目に氷の華が咲いていた。
   氷の華はどんな時に、何処にできるのか知らないが、今までに3度、粘土層の公園の片隅、畑の盛り土の上、
今朝のコンクリートの割れ目に。 私の記憶にはこの3回だけだ。
 氷の華はわずか3〜5mmの綿毛で膨らんだタンポポの種子のような白いものが、地面にパラパラと撒かれたように広がっている。
氷は、土中の水分が、氷点下に冷え込んだ路面付近から凍りだして、垂直に成長を始める。
そのとき抵抗の小さい表面方向へ、表土を載せたままのびていく。
しかもそのときの成長速度が速いために空気も取り込み、筋張って白っぽくなる・・・のではないだろうか。
こうやって霜柱はできると思うのだが、白い球体をばら撒いたような氷の華はなぜ霜柱にはならなかったのだろうか。
                                                                      (Jan,10 2009)